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更新日:2023年1月1日
第10回(2005年1月28日)
元禄15年12月14日に大石内蔵助ら赤穂義士たちは吉良邸へ討入りをし、吉良上野介の首級(しゅきゅう。討ち取った首)を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前へ供え仇討ちの報告をします。
引揚げの途中、吉田忠左衛門と冨森助右衛門の2人は、大石の命令により幕府の大目付(おおめつけ)仙石伯耆守久尚(せんごくほうきのかみひさなお)へ吉良上野介邸討入りの自訴をし、2人は仙石邸に留められます。一方、泉岳寺で控えている大石内蔵助ら44人(寺坂吉右衛門を除く)は、仙石邸に呼び集められた後、吉田・冨森とともに、それぞれ15日の夜中に4大名家へ預けられます。
その4家とは、肥後熊本藩主の細川越中守綱利(54万石)、伊予松山藩主の松平<久松>隠岐守定直(15万石)、長門府中藩主の毛利甲斐守綱元(5万石)、三河岡崎藩主の水野監物忠之(5万石、のち6万石)でした。
お預け先の人数は、熊本藩下屋敷へ17人、松山藩上屋敷へ10人(のち中屋敷へ移る)、長府藩中屋敷へ10人、岡崎藩上屋敷へ9人(のち中屋敷へ移る)、という割り振りです。大藩の熊本藩へは赤穂義士のうち知行が高い人(給料が高い人)を、次いで松山藩、長府藩、岡崎藩という順序になっています。さらに親子・兄弟での討入り参加も多くありますが、同じ大名家には家族を一緒に預けないという方策がとられました。
No |
氏名 |
享年 |
役職 |
知行高 |
隊 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
細川越中守綱利(ほそかわえっちゅうのかみつなとし)<熊本藩> |
||||||
1 |
赤埴源蔵重賢 |
35 |
馬廻<江戸> |
200石 |
裏門 |
|
2 |
礒貝十郎左衛門正久 |
25 |
用人 |
150石 |
裏門 |
|
3 |
潮田又之丞高教 |
35 |
馬廻、国絵図役 |
200石 |
裏門 |
|
4 |
大石内蔵助良雄 |
45 |
家老 |
1500石 |
表門 |
(親) |
5 |
大石瀬左衛門信清 |
27 |
馬廻 |
150石 |
裏門 |
|
6 |
奥田孫太夫重盛 |
57 |
馬廻、江戸武具奉行<江戸> |
150石 |
表門 |
(親) |
7 |
小野寺十内(重内)秀和 |
61 |
京都留守居番 |
150石 |
裏門 |
(親) |
8 |
片岡源五右衛門高房 |
37 |
用人 |
350石 |
表門 |
|
9 |
近松勘六行重 |
34 |
馬廻 |
250石 |
表門 |
|
10 |
冨森助右衛門正因 |
34 |
馬廻、使番<江戸> |
200石 |
表門 |
|
11 |
間喜兵衛光延 |
69 |
馬廻、勝手方吟味役 |
100石 |
裏門 |
(親) |
12 |
早水藤左衛門満堯 |
40 |
馬廻 |
150石 |
表門 |
|
13 |
原惣右衛門元辰 |
56 |
足軽頭(鉄砲頭) |
300石 |
表門 |
(兄弟) |
14 |
堀部弥兵衛金丸 |
77 |
(堀部安兵衛義父)<江戸> |
50石隠居料 |
表門 |
(親) |
15 |
間瀬久太夫正明 |
63 |
目付 |
200石 |
表門 |
(親) |
16 |
矢田五郎右衛門助武 |
29 |
馬廻<江戸> |
150石 |
表門 |
|
17 |
吉田忠左衛門兼亮 |
63 |
加東郡代 |
200石 |
裏門 |
(親) |
松平隠岐守定直(まつだいらおきのかみさだなお)<伊予松山藩> |
||||||
1 |
大石主税良金 |
16 |
(大石内蔵助惣領) |
- |
裏門 |
(親) |
2 |
大高源五忠雄 |
32 |
中小姓近習、膳番 |
20石5人扶持 |
表門 |
(兄弟) |
3 |
岡野金右衛門包秀 |
24 |
(亡父物頭並) |
200石(亡父) |
表門 |
|
4 |
貝賀弥左衛門友信 |
54 |
中小姓近習、蔵奉行 |
10両2石3人扶持 |
表門 |
(兄弟) |
5 |
木村岡右衛門貞行 |
46 |
馬廻 |
150石 |
裏門 |
|
6 |
菅谷半之丞政利 |
44 |
馬廻、代官 |
100石 |
裏門 |
|
7 |
千馬三郎兵衛光忠 |
51 |
馬廻 |
100石 |
裏門 |
|
8 |
中村勘助正辰 |
48 |
馬廻、祐筆頭 |
100石 |
裏門 |
|
9 |
不破数右衛門正種 |
34 |
元馬廻、元浜辺普請奉行 |
元100石 |
裏門 |
|
10 |
堀部安兵衛武庸 |
34 |
馬廻、江戸留守居 |
200石 |
裏門 |
(親) |
毛利甲斐守綱元(もうりかいのかみつなもと)<長府藩> |
||||||
1 |
岡嶋八十右衛門常樹 |
38 |
中小姓近習、札座奉行 |
20石5人扶持 |
表門 |
(兄弟) |
2 |
小野寺幸右衛門秀富 |
28 |
(小野寺十内惣領) |
- |
表門 |
(親)(兄弟) |
3 |
勝田新左衛門武堯 |
24 |
中小姓近習 |
15石3人扶持 |
表門 |
|
4 |
倉橋伝助武幸 |
34 |
中小姓近習<江戸> |
20石5人扶持 |
裏門 |
|
5 |
杉野十平次次房 |
28 |
中小姓近習 |
8両3人扶持 |
裏門 |
|
6 |
武林唯七隆重 |
32 |
中小姓近習 |
10両3人扶持 |
表門 |
|
7 |
間新六光風 |
24 |
(間喜兵衛二男) |
- |
裏門 |
(親)(兄弟) |
8 |
前原伊助宗房 |
40 |
中小姓近習、金奉行<江戸> |
10石3人扶持 |
裏門 |
|
9 |
村松喜兵衛秀直 |
62 |
中小姓近習、蔵奉行<江戸> |
20石5人扶持 |
表門 |
(親) |
10 |
吉田沢右衛門兼貞 |
29 |
(吉田忠左衛門惣領)、中小姓近習 |
10両3人扶持 |
表門 |
(親) |
水野監物忠之(みずのけんもつただゆき)<岡崎藩> |
||||||
1 |
奥田貞右衛門行高 |
26 |
(奥田孫太夫養子) |
- |
裏門 |
(親) |
2 |
茅野和助常成 |
37 |
横目 |
5両3人扶持 |
裏門 |
|
3 |
神崎与五郎則休 |
38 |
横目 |
5両3人扶持 |
表門 |
|
4 |
間重次郎光興 |
26 |
(間喜兵衛惣領)、中小姓近習 |
- |
表門 |
(親)(兄弟) |
5 |
間瀬孫九郎正辰 |
23 |
(間瀬久太夫惣領) |
- |
裏門 |
(親) |
6 |
三村次郎左衛門包常 |
37 |
台所役人 |
7石2人扶持 |
裏門 |
|
7 |
村松三太夫高直 |
27 |
(村松喜兵衛惣領) |
- |
裏門 |
(親) |
8 |
矢頭右衛門七教兼 |
18 |
(矢頭長助惣領) |
20石3人扶持(亡父) |
表門 |
|
9 |
横川勘平宗利 |
37 |
徒士 |
6両3人扶持 |
表門 |
|
〔備考欄の表記〕
(親)=親子で参加、(兄弟)=兄弟で参加
また、4大名家では義士たちに対する身繕いの仕方や日用品の使用、親類縁者との書通など処遇方法を一々老中(ろうじゅう)へお伺いをたてて対処しています。小藩は比較的規制面が強かったようですが、大藩である熊本藩細川家の厚遇ぶりは「堀内伝右衛門覚書」(ほりうちでんえもんおぼえがき)に記されています。
なお、この細川家家臣の堀内伝右衛門(250石、使番)は、義士お預かりの際には請け取りにも出向き、2月4日まで警護を兼ねた接伴役を仰せ付かって、大石内蔵助ら17人を懇切丁寧に扱い、義士切腹の後には遺族を訪ねたり、郷里の菩提寺である日輪寺(現在の山鹿市)に赤穂十七義士の遺髪碑を築き丁重に弔って顕彰されています。この縁で平成14年2月に赤穂市は山鹿市と姉妹都市提携を結びお互いに友好を深めています。
さて、赤穂義士の処分について、評定所(ひょうじょうしょ。寺社奉行・町奉行・勘定奉行で構成)と今回は大目付4人も参加しての評議の結果として、「四藩お預けのまま、もう少し時を経て後年になって処分を」という意向で、いわば「四藩への永預け」を求める「評定所一座存寄書」(ひょうじょうしょいちざぞんじよりしょ)が出されました。
このような助命の意見もあった中で将軍綱吉(つなよし)は、公弁法親王(こうべんほっしんのう。上野寛永寺・日光輪王寺門主)の「…公より武士の道をたてゝ死をたまわらんには彼等が志も空しからず…」との意見を参考に切腹をさせることに決めました。
そして、元禄16年2月4日、4大名家へそれぞれ検使目付を派遣し46人へ「切腹」を仰せ付け、その日の午後にお預け先の家臣の介錯によって大石内蔵助らは切腹し、亡君が眠る泉岳寺へ葬られました。ただし、間新六の遺骸は姉婿の中堂又助に引き取られ築地本願寺へ埋葬されました。
現在も赤穂の花岳寺・大石神社をはじめ関係社寺では、義士の冥福を祈る行事が執り行われています。<参考文献=『忠臣蔵』第一巻(赤穂市)、『赤穂義士事典』(赤穂義士事典刊行会)ほか>
俳句の季語に、故人を偲んで「〇〇忌」というのがあります。「2月4日」の大石内蔵助の忌日は、春の季語として「大石忌」(おおいしき)とされています。その句の一部を紹介しますと、
「いつしかに老妓といはれ大石忌」(佐々木紅春、『ホトトギス季寄せ』稲田汀子編、三省堂)
「手をひかれ來たる老妓や大石忌」(田畑比古、『ホトトギス季寄せ』稲田汀子編、三省堂)
「京に来て振り込めらるる大石忌」(村山故郷、『新版季寄せ』角川書店編・発行)
「大石忌祗園の宵の春浅き」(多田莎平、『菩提樹』多田莎平著、多田文子発行)
などがあります。
また、赤穂義士の中には俳句に秀でた人が多くいます。小野寺十内は俳号を「里龍」、茅野和助は「禿峰」、神崎与五郎は「竹平」、寺坂吉右衛門は「万水」、冨森助右衛門は「春帆」、間重次郎は「如柳」、原惣右衛門は「来水」、吉田忠左衛門は「白砂」と称しています。
特に俳諧で有名な大高源吾は、俳号を「子葉」(しよう)といい、句集『ふたつの竹』を刊行しています。この子葉を偲び「子葉忌」を季語として俳句を詠む方もおられます。その一例を挙げますと、
「子葉忌や庭の清めの春の雪」(多田莎平、『菩提樹』多田莎平著、多田文子発行)
「句の友の四五人親し子葉の忌」(多田莎平、『初暦』多田莎平著、多田文子発行)
などがあります。
「細川邸の切腹」(山川永雅画、『義士大観地』大正9年刊)
この文を書いた人(文責)
矢野圭吾(赤穂市教育委員会)
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