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更新日:2011年9月1日

忠臣蔵寺子屋-第7回

第7回(2004年12月13日

討ち取られた吉良上野介の首の行方

泉岳寺の浅野内匠頭墓前に手向けられた吉良上野介の首はその後どうなったのでしょうか。
元禄16年(1703)3月に泉岳寺内快舟寮(かいしゅうりょう)の寮主快舟、同僚の瑞泉(ずいせん)、春嶺寮(しゅんれいりょう)の石獅(せきし)の3人の僧からの聞き取りを記録した『義士実録』(『忠臣蔵』第3巻所収)によりまとめてみましょう。

引揚げの途中で大目付仙石伯耆守(せんごく・ほうきのかみ)に自訴して出た吉田忠左衛門・冨森助右衛門を除く44人は、泉岳寺の亡君墓前に首尾を報告した後、仙石邸へと移されましたが、首はそのまま寺に預け置かれ、15日の夜は首を入れた箱の周囲に屏風を立て、出家衆が番をして過ごしました。
16日、長恩(ちょうおん)和尚が寺社奉行のところへ行き、首を早く片付けたい旨を伝えたところ、吉良左兵衛義周(きら・さひょうえ・よしちか、上野介の養子)へ返すように指示されました。居合わせた吉良家菩提所萬昌院(ばんしょういん)の僧と打ち合わせをし、泉岳寺の僧石獅と一呑(いちどん)を使いとして吉良邸まで送り届けることとなりました。首箱は渋紙で包み細引でくくり、中に棒を通して中間(ちゅうげん)に担わせ、目録・口上書を添えて午後8時ごろ泉岳寺を出ました。

吉良邸では裃(かみしも)を着た侍や足軽・中間3、40人が平伏して主人の首を迎えました。石獅と一呑は玄関口で首箱を渡そうとしましたが、狭い廊下を通って3つ目の座敷に通されました。そこには異臭が立ちこめていて難儀しました。ここで萬昌院長老と僧1人にあいさつした後、吉良家の家老に口上を述べて首箱を渡すと、早速中が改められました。

首の請取り状を待っている間、吉良家の家臣から泉岳寺での赤穂浪士たちの様子を話してほしいと尋ねられましたが、外へ出ていないので知らないと答えています。萬昌院の僧が言うには、死者の首(家老小林平八郎の首)ひとつが足りず、泉岳寺へ余計に行っていないかというのです。萬昌院の僧に異臭のことを尋ねたところ、唐紙障子の向こうにはまだ死骸があり、通ってきた廊下に敷いてあった薄べりの下は血だらけのうえに、あちこちに火鉢が置かれ、その火気のために血の臭いが激しいとのことでした。待ちわびているところへ湯漬けが出されましたが、湯漬けに臭いがうつって迷惑し、無理に飲み込みました。その後ようやく請取り状が出され、石獅と一呑はこれを受け取って泉岳寺へと帰っていきました。

こうして吉良家に戻された上野介の首は、刃傷事件の際の治療を行った外科医師栗崎道有(くりさき・どうう)の手で胴体と縫合され、吉良家菩提所萬昌院に葬られたのです。


吉良の首の引き渡し(「元禄義士図絵巻」下巻より)

この文を書いた人(文責)
小野真一(赤穂市立歴史博物館)

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