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更新日:2011年9月1日

忠臣蔵寺子屋-第8回

第8回(2004年12月13日)

「義士」たちの暇乞い状

平穏な日常を一気に瓦解せしめた赤穂事件。その渦中で、「義士」たちは多くの手紙を書き残しています。
ことに江戸下向以後、「その日」が近づくにつれ、忠義に死する覚悟をあらわにしつつも、肉親の行く末を案じ、親交の深かった人々に後事を託す手紙(暇乞い状)を送っています。そこには、主君への「忠」と親類縁者への「孝」の狭間で思い悩む自らの本心が切々とつづられ、今なお読む者の心を打ちます。
ここでは、数ある「義士」たちの暇乞い状の中から5通を選び、それぞれの内容をかんたんにご紹介しましょう。

1.大高源五書状 元禄15年(1702)9月5日付 母宛 正福寺所蔵

いよいよ本懐を遂げるため江戸へ下ろうとする大高が母に宛てて送った暇乞い状です。4.5メートルにも及ぶ長文で、「義士」書状中の白眉として名高いものです。
刃傷事件から討入りに至る経緯を説明する中で、主君が吉良に対して抱いた命を捨てるほどの憤りを晴らすことこそが武士の本意だと述べています。そして「吉良を討つことは天下=将軍に恨みを言うに等しく、親や妻子に累が及ぶかもしれないが覚悟して早まったことをしないでもらいたい。我々兄弟(大高、実弟の小野寺幸右衛門、従弟の岡野金右衛門)は侍冥利(さむらいみょうり)にかなって本望だ。3人はいずれも屈強であるから容易に本望を遂げ、亡君の憤りを晴らすことができるだろう。それを閻魔(えんま)の土産にするので安心してほしい。心細いことだろうが、愚かに悲しまず、金右衛門の母や妹千代と互いに力を添えてほしい。仏門に入られた身であるから仏のお勤めに励んでもらいたい」と母に別れのあいさつをしたためています。

2.曽我金助(早水藤左衛門)書状
元禄15年(1702)10月7日付 山口弥右衛門宛 赤穂市立歴史博物館所蔵

大石内蔵助・潮田又之丞・菅谷半之丞・三村次郎左衛門とともに江戸へ向けて京を出発した10月7日に、備前国西大寺(現岡山市)の実兄山口弥右衛門に送った手紙。「曽我金助(そが・きんすけ)」の変名を用いて書いています。
「亡君の志を継ぐことを義と思い定めて江戸へ下る。老父の嘆くのを顧みず、忠義の志を強く抱くことは孝の道に欠けているようにもみえるが、弱齢のころから父の教えに従って武を守ってきた上は、忠義の道を尽くさずして何を志というべきだろう。志をなくして生き父母に悪名を立てるのと、死んで義をまっとうするのとどちらを選ぶべきか身内でも話し合ってもらいたい。しかしながら、親子の情け、兄弟の親しみ、子孫のあわれを思えば涙があふれてきて袂(たもと)を濡らすことだ」と述べ、「地水火風空乃うちより出し身のたとらて帰る元の住かゑ」の辞世を添えています。身内への訣別を告げる暇乞い状です。

3.岡野金右衛門書状 元禄15年(1702)12月4日付 母宛 個人所蔵

当初討入りを予定していた12月6日を前に、4日付で岡野は母に宛てて暇乞い状を送っています。
「かねて申し上げたとおり、いよいよ時節到来。同志の者たちと相果てること、赤穂を退去するときから2度と帰る生きて帰ることはないと覚悟していたことなので、家族の行く末を案じるのは冥土(めいど)へ旅立つ際の支障になる。武士の道のならいとあきらめ、決して深くお嘆きにならないように。主君のために命を捨てることは父母両人様への奉公になると思う。無常の世の中とあきらめてもらいたい。いかなるめぐりあわせか親子となり、さしたる奉公もすることなく、このような難儀をかけることを罪深く思う。私のためにひたすら念仏を唱えてもらいたい」と述べています。忠と孝の狭間で心の揺れ動く様がよく表われています。

4.三村次郎左衛門書状
元禄15年(1702)12月11日付 菅原屋留助宛 赤穂市立歴史博物館所蔵

「その日」も近づきつつある12月11日、三村次郎左衛門が赤穂の知己に宛てて送った暇乞い状。後事、特に老いた母親への心添えを頼んでいます。
三村はおそらく母に訳も言わずに旅立っていったのでしょう。前々から心に決めていたこととして亡君の仇を討つ盟約に加わっていることを明かし、江戸下向前、秋に暇乞いのため赤穂へ戻ったときのことを回想しています。「母に会った際、一生の暇乞いと未練も残ったが、盟約のことはいっさい口にせず、無事に帰るなどと言って心中で涙し、後ろ姿を拝むばかりであった。亡君のためといいながら老いた母の心を欺いたのは不孝の至りと自戒するも、義の道をはずれることはできず、おわびを言ってほしい」と頼んでいます。そして、「人には必ず死期があり、親子といえども一度は別れのときがくるもの。嘆き悲しまず、我々のために仏参のお勤めをしてくれるよう母に言い聞かせてほしい」と懇願し、くれぐれも老母の行く末を頼んでいます。

5.大石内蔵助書状
元禄15年(1702)12月13日付 恵光・良雪・神護寺宛 正福寺所蔵

12月13日、大石内蔵助が花岳寺の恵光(えこう)和尚、正福寺の良雪(りょうせつ)和尚、神護寺に宛ててしたためた暇乞い状。「寺々への暇乞い状」と呼ばれ、大石の手紙の中でも最も著名なもののひとつです。
まず10月7日に京を発って江戸に出てからの経緯を述べて、近々討ち込んで本望を達する所存であると伝えます。ついで、書き付けるのも恥ずかしいことだがと断りつつ、上方(かみがた)・江戸での脱盟者の名を掲げ、今となっては当初から同志に加わらなかった岡林杢助(おかばやし・もくのすけ)や外村源左衛門(とのむら・げんざえもん)らの了簡の方がましだとまでいっています。また、討入り間近ということで暇を出した家来の左六と幸七のこれまでの働きを誉め、後事口添えを頼んでいます。
そして、同志一同の目的は亡君の面目を立てることであり、死後見分のために用意した口上書の写しを送ること、いずれも忠義に厚い者たちであるから回向(えこう)を頼むこと、事の詳細は京の寺井玄渓(てらい・げんけい)に尋ねてほしいことが書き連ねられています。さらに、離縁した妻りくや子どもたちのことにも筆は及びます。ことに次男吉之進(きちのしん)について、「出家したと聞いたが、武名の家を継いでもらいたい」とやや心を曇らせています。
いずれにせよ、討入りのことが翌日に決定されるというあわただしいときに、約1.6メートルにも及ぶ長文の手紙を書いた事実には驚嘆せざるをえません。

ここに掲げた手紙は『忠臣蔵』第3巻などに活字化されて収録されています。是非とも原文に接していただき、「義士」たちが一文字一文字に託した心の機微を読みとってみてください。


大石内蔵助「寺々への暇乞い状」(部分)

この文を書いた人(文責)
小野真一(赤穂市立歴史博物館)

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